PEP
No. 2009-008

乳がん術前乳腺 MRI 検査を推し進めよう

一橋大学 国際・公共政策大学院 公共経済プログラム 中川千鶴子

新規年間乳がん患者数が、図1に示すように年を経るごとに増加している。今や乳がんは女性(男性にもごく僅かに存在はするが)にとっては天敵ともいえる疾患となりつつある。

図1:全国新規女性乳がん患者数推計値

出所)Marugame, T, T. Matsuda, K. Kamo, K. Katanoda, W. Ajiki, T. Sobue ; Japan Cancer Surveillance Research Group (2007) “Cancer Incidence and Incidence Rates in Japan in2001 Based on the Data from 10 Population-Based Cancer Registries,” Japanese Journal of Clinical Oncology, 37, pp.884-891. より筆者作成。

この乳がんに対抗するためには、当然のことながら早期発見に努めること、しかも高い精度をもって発見することが重要であり、さらに、発見されたがんを完全に除去し、再発を防ぐことが重要となる。

最近では、手術の中で、部分切除術の割合が大きくなってきてもいるので、乳がん術前広がり診断は一層重要さを増しているといえよう。

その役割を大きく担うのが、磁気共鳴画像(Magnetic Resonance Imaging: MRI )の技術を用い、マンモコイルを使用した「乳腺 MRI 検査(MRマンモグラフィ)」であるという。図2のような MRI 装置を使用するが、うつ伏せに寝た胸のところに2つ穴がある装置となる。

この乳腺 MRI 検査の医学的有用性については、以下のような報告がなされている。

図2: MRI 装置(写真:GE横河メディカルシステム(株) 提供)
                      
  1. 乳がん診断の検査には、一般的にはX線マンモグラフィと超音波とが採用されている。この2つの検査の結果に基づいてなされた手術については、その後約12%の確率で追加手術が必要となった。しかしながらこの2つの検査に加えて乳腺 MRI 検査を実施した場合には追加手術の確率が約5%に減少する(注1)ということが確認されている。

  2. 病理的診断によって最終的に非浸潤性乳管がんと診断された167名について、これを事前にX線マンモグラフィで検査したところ93名(56%)しか検出されなかったのに対し、乳腺 MRI 検査では153名(92%)と高い検出率を示した。また、浸潤がんに移行しやすく悪性度の高い「ハイグレード」の検出率は、X線マンモグラフィが52%であったのに対し、乳腺 MRI 検査は98%であったと報告されている(注2)

これらの研究結果により、乳腺 MRI 検査の医学的有用性が認められてきたところである。日本乳癌学会編集の診療ガイドラインについての2008年版では、乳がん術前乳腺 MRI 検査実施を推奨グレードC(日常診療で実践することは推奨しない)から、B(日常診療で実践するように推奨)に昇格させるに至った。また、厚生労働省は、全国のがん診療連携拠点病院の大半に乳がん検査用の MRI 装置を2008年度から2年間かけて整備することを決定し「乳がん検査用マンモコイルの緊急整備事業」として約8億7000万円、予算を計上し、執行中である。コイルの新規購入や最新機種への更新の際に半額を補助するとしている。

このような認識にもかかわらず、乳がん術前 MRI 検査の全国普及は遅れている。その理由として、(1) 乳腺外科医が病院に存在しない、或は、(2) 乳腺外科医の関心が乏しい、(3) 乳腺コイルを用いた MRI ではなく仰臥位造影のCTで代用している、または、(4) 検査枠を取りにくいという点が挙げられている(資料)。(1) および (2) の原因を解消していかなければならないが、この点への言及は本稿の目的でなく、別途の検討をまちたい。(3) および (4)についての最も大きな問題点は経済学的側面にあると考えられる。そこで、これらの問題も含めて、乳腺 MRI 検査の経済学的検討を行うこととした。

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検討にあたっては、個々の病院における経済的側面ではなく、社会全体として、乳腺 MRI 検査を実施することにより社会的便益が生じるかどうかをみることを目的とし、その分析方法として費用便益分析を用いた。病院における既存の MRI 装置を使用して、乳がん術前診断のため、乳腺 MRI 検査を1回することによって、社会全体の純便益がプラスとなるのかマイナスとなるのかをみるのである。純便益は社会全体の「便益-費用」として算出される。社会的純便益がプラスとなれば、経済学的にも乳腺 MRI 検査の普及を推し進めることに、ゴー・サインが出たことになる。

今回の分析の内容は、乳がん患者に対して通常行われるX線マンモグラフィ及び超音波による検査に加えて、乳腺 MRI 検査を実施することによる費用便益分析である。即ち MRI 検査を加えることによる費用増と追加手術が減少することによる便益増を比較するものである。患者の便益としては、「患者の支払意思額(Willingness to Pay: WTP )」を充てることとし、この WTP を算出するために、聖路加国際病院で2008年9月及び10月にブレストセンターの患者さんを対象にアンケート調査をさせて頂き、125人分の統計分析を行った。

アンケートの内容は、「乳腺 MRI 検査に10割の自己負担で、いくら支払いますか」と問うたものである(図3参照、アンケート作成方法については、consulting report 参照)。 WTP の中には、安心感や、追加手術の確率が削減されることによる費用負担(手術費用や機会費用〈時間というコスト〉や交通費)の軽減等からくる、支払意思額が含まれる。アンケートを統計分析(注3)した結果、 WTP は121,756円と算出された。

図3:乳がん術前 MRI 検査に対する「支払意思額」の推計



出所)筆者作成。

この121,756円という推計値を使用して費用便益分析を行ったのが表1(注4)(注5)(注6)(注7)である。この結果、純便益は約91,408円となった。即ち、乳腺 MRI 検査を1件実施する毎に、社会全体としては、9万円を超える便益が生じるとの試算がなされたのであり、経済学的にも社会として、乳腺 MRI 検査普及を進めることの妥当性が検証されたといえるであろう(費用便益分析については、田原梨絵、中村清吾、角田博子、中川千鶴子(2009)「乳腺診療におけるMRIの医療経済効果」『映像情報メディカル』2009年3月号, pp.266-270.参照)。

表1:費用便益分析(表をクリックすると拡大します。)



出所)筆者作成。  
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しかし、問題がある。乳腺 MRI 検査に充分な性能を有する高額な MRI 装置は、クリニックや普通の病院では、高額すぎてもつことが難しいのである。調査したところ、実際、多くの乳がん手術件数のあるクリニックでも、もってはいないところが多い。中には病院でも、もってはいないところもある。そこで、「共同利用」が考えられる。まず、 MRI 装置のある各施設の「検査枠の空き情報を流すこと」から始めるのが現実的な第一歩であろう。

しかしながら、本腰を入れて乳腺 MRI 検査を普及させるためには、高性能の MRI 装置を保有し乳がん診断に実績のある特定のがん診療連携拠点病院に集中的に補助金を付けることを提言したい。その特定の拠点病院には、近隣地域における要検査数をカバーしうる十分な MRI 装置数を確保しなければならず、それによって生じる赤字分は公的資金によって、補填する必要がある。先に述べた費用便益分析でも、社会全体として1件当り9万円超の便益があるのであるから、その範囲内であれば、補助金を支出しても十分もとはとれるというものである。現行の MRI 1件あたりの診療報酬額が30,606円であることを考慮すれば、この額は十分に大きく乳腺 MRI 検査の普及に貢献しよう。

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まとめると、政策提案として、(1) 経済学的にみても、乳がん術前乳腺 MRI 検査の普及を進めるべきである。 (2) その普及を進めるために、特定の拠点病院に対して、集中的な補助金を支給すべきである、といえるであろう。


(注1)
田原梨絵、津川浩一郎、矢形寛、濱岡剛、猿丸修平、桑山隆志、竹井淳子、林直輝、日野原友佳子、角田博子、鈴木高祐、中村清吾(2007)『乳癌術式決定における MRI の有用性』(2007年6月29日、乳癌学会発表資料)及び田原氏の情報提供による。
(注2)
Kuhl, Christiane (2007) “ MRI for Diagnosis of Pure Ductal Carcinoma in Situ: A Prospective Observational Study,” The Lancet: Volume 370, Issue 9586, 11 August 2007-17 August 2007, pp.485-492. MRマンモグラフィ研究会(2007)『乳がん診療のスタンダード 診断の精度向上をもたらすMRマンモグラフィ』。
(注3)
WTP は、ランダム効用モデルの2項選択ダブルバウンド・ロジットモデル分析の中央値としている。分析ソフトは栗山浩一『EXCELでできるCVM3.1番』である。
(注4)
患者の費用の中に、診療報酬額の3割が入る。納税者の費用の中に、診療報酬額の7割が入る。(診療報酬額の算定の際の MRI 装置の機種は1.5テスラの装置。)
(注5)
約24,300円の計算について:[約240,000円(=X線マンモグラフィとエコー検査後の追加手術の確率が約12%の時の診療報酬額計算による追加手術の平均費用)×12%]-[約90,000円(=X線マンモグラフィとエコー検査に加えて MRI 検査をした後の追加手術の確率が約5%の時の診療報酬額計算による追加手術の平均費用)×5%]=約28,800円-約4,500円=約24,300円となる。
(注6)
約24,048円の計算について:この計算は、直接費用のみでの計算になっている。 しかも、人件費計算には給与を使用している。賞与や退職金等は含まれていない。また、 MRI を設置する部屋の建設費やその部屋の空調費等は含まれていない。病院の管理部門や事務の方の労務費等の間接費用を配賦してはいない。計算の前提は、 MRI 装置は約1億6800万円、 MRI 装置の減価償却期間は6年、保守費用は1,250万円/年、年間稼動日数は250日、1日15件、撮像時間は35分、患者1人を処理する時間は35分である。
(注7)
患者の費用 MRI 分の計算について:交通費(病院まで往復約1,500円)と機会費用(3時間×時間給〈2008年8月の派遣の平均給与約1600円〉の約4,800円)が入っている。